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三坂の三木家について母親の実家母親の実家は旧家で、宍粟郡安富町三坂にあります。播州には5つの川が流れていますが、僕の実家は市川の下流にあり、母親の実家は、夢前川の上流にあります。 家紋(伝聞):隅切りに揺り三(隅切り角に波三)
家紋(お墓):隅切り角(隅切り折敷)に三本
漢字の三が入っている家紋の例が2つ出てきたので並べ替えます。
関連はありそうだけれど家紋のデザインがちょっと違っていたので、表を分けました。2005/3/13追記
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痕跡
痕跡の伝承旧家であるものの、途中、親が早死にして、家財を売って暮らしていた時代があったし、第二次大戦中には、母親自身も、屋根裏に縛ってあった鎧を分解して作った赤いセーターを着ていたことがあったりしたそうで、昔のものはあまり残っていません。 叔父の話では、庄屋をしていた時に葬式の時だけ差せる刀とか、火縄銃まであったそうです。火縄銃の件は、叔父に初めて聞いたのですが、母親の話では、埋めてあった古いものは、残っていないということだったので、これらは落ち武者時代のものではなく庄屋時代のものかも知れません。家系図MLで江戸時代の末期に火縄銃を使って狩猟をしていた話しが出てきていました。(江戸時代は、人口も増えないし、技術も進歩しない時代だった?) 過去帳16世紀にその土地にやってきた人か、あるいはその祖先の2、3人の法名が書かれた煤けた掛け軸が両方にかかっていたそうです。母親の記憶では年代は1550年頃だったとか言っているので、やってきた人の祖先の法名だろうということです。しかし、おばあさんの葬式後に仏壇を変えてそれから見当たらなくなっているそうです。先日2000/8 叔父の家を訪ねたのですが、その掛け軸は出てきませんでした。大切にしまいすぎて出てこないのか、古びて汚れているから捨ててしまったのか。 しかしそれは、法名だけです。年代が書いてあったのだとすると、河野峯吉さんが調べに来たときに見せていれば、誰だか判断がついていたかも知れないのですが、河野峯吉さんには見せていないそうです。英賀城の歴史の中の人との関係はわからないそうです。 また、林田のお寺で、過去帳を調べてもらったそうなのですが、最も古いもので、元禄年間1692年に死んだ祖先までしかたどれなかったそうです。それより昔は、火災で紛失しているのだそうです。せっかく寺の過去帳を調べてもらったにもかかわらず、普通の大きさの墓石なので書き込むスペースが無くて、墓には僕から数えて6世代前の人の名前しか載っていませんでした。 三坂のおじいちゃんが死んだときに、おばあちゃんなどが京都の西本願時まで納骨に行っていました。なぜわざわざ京都までと疑問だったのですが、僕の実家でも、西本願寺ではないが、亀山本徳寺の納骨堂があってそこに納めるそうです。ということで、檀家になっている末寺だけでなく、本願寺やその直轄寺とも納骨の時にはかかわりがあるみたいです。ということで、将来、古文書OCRができて、お寺の文書が電子化された頃には、末寺ではデータが存在しなくなっていても西本願寺やその直轄寺からデータが取り出せる可能性があるかも知れないと思ったのでした。まあ、その前にすべきことはいろいろあるでしょうが。 文献「安富町史」には、100年ほど前の分家である裏の家に伝わっている庄屋をしていた頃の江戸時代の書類の写真が載っていました。もしかしたら裏の家には、英賀城との関係を明らかにする古文書も残っているのかも知れません。
「安富町史」によれば、三坂を含む5つの村の大庄屋の土居家の文書には、江戸時代の入会地訴訟のこととか出てくるそうです。本の中では別の村の例が書いてあるのですが、三木家の祖先も村の入会地訴訟で、裁判では勝ったものの、訴訟費用がいっぱいかかって庄屋が山を売って払うことになってしまったそうです。 「安富町史」の最後の方のそうれん(葬式の意味)の様子の写真が載っているページがあるのですが、それは、三坂の墓から、母親の実家の方を見た1968年の写真で、わら屋根の一部が写っています。ひいおばあちゃんの葬式が1966年にあったのですが、そんな感じだったのでしょう。ひいおばあちゃんは長生きしたので親戚が大勢やってきて喪服の人の比率が高い葬式だったそうです。 伝承母親の話では、二人の家来をつれて三坂に逃げてきたことになっていて、叔父の話では、兄弟と家来の3人で逃げてきたことになっています。三坂の中を流れる川の西側に弟の子孫の三木家が分布しているのだそうです。(家紋はまったく異なるデザインだそうです。)あと、叔父の話だと、三本の線は鰹節を意味することになっています。 いろいろおもしろい伝承を母親から聞いているのですが、どこまで本当なのかよくわかりません。昔は夢前川から東の山に囲まれた範囲すべての土地や山を持っていたとか、売ってはいけないと言われていた畑を、分家が相続して、分家は穴を掘りつづけて次の世代でついに、隠されていた宝を掘り当てたといった話です。古文書などが裏の家に伝わっている理由として母親はこういう説明をしていました。多分、親が早死にして物を売って生活していたという時代に古文書も売ってしまったのでしょう。 あと、今の家は10年ほど前に立て替えたものでその前の家は100年程昔のわら屋根の家でした。そのさらに前の家は、周りに廊下がある平安風の建物だったそうです。親が死んで財産を売って暮らしていた頃、山崎に住む親戚ではない三木家に売って、買いとった人は、山崎に移築したのだそうです。 母親が言うには、宍粟郡安富町三坂では、三木姓が半分くらいで、その本家が母親の実家であるということでした。しかし、全体で50世帯に対して10世帯ほどしかありませんでした。母親は、それは、奥三坂を入れているからで、今は三坂と呼ばれているが、昔は単に奥と言われていて別の村として言っていたそうです。 三木氏に関する研究者母親が多少余分に家系図とかに興味を持っているのには理由があります。僕の両親はお見合い結婚なのですが、お見合いの話を持ってきたのが、河野(こうの)という人だったそうです。実際には、僕が小学校の1,2年の時に隣のクラスの担任だった三木先生の親の家を訪ねた時に、そういう話が出たということらしいです。播州各地の三木家を訪ね歩いて古文書とかをみせてもらいに回って、英賀城崩壊について本を出した人みたいです。昭和34年の『播州英城報恩記』河野峯吉著という本だと思います。(「赤松・三木氏の文献と研究」の13ページに出てきました。)母親の実家の西側の庭には、最初に三坂にやってきた先祖の小さな墓があるのですが、河野さんは、その墓の形を見て、城主の家系ではないと判断したそうです。
播州の三木家について「播州気質」では、播州の三木家について32章のうちの2章を費やしてあります。播州には三木家が多いみたいです。英賀城の城主起源の三木があって、それもいろいろ複雑みたいなのですが、その他に、三木城の城主別所氏が切腹してその代わりに家来の命が助かり、その家来たちが各地に散って三木家を名乗ったというのもあるみたいです。竜野の三木露風、三木清はその口だろうと書いてありました。 落ち武者がなぜ、江戸時代に庄屋になったりすることができたのか疑問だったのですが、「播州気質」では、夢前川上流には、昔から京都の朝廷に反抗した人が流されて住みついて来たそうです。もともと純朴な人たちが住んでいたので、逃げてきた人を受け入れたということみたいです。あるいは、もっと普通に、領地のひとつに引っ込んで農民になったというだけかも知れません。 別の可能性他の本には、三木家に限らない一般的に、戦乱を逃れた豪商や豪農が、戦乱の当事者だったかのような伝承を伝えていることがあると書いてあったのでした。なので、そういう可能性が常に残ります。武具の類が残っていても、それも、「八つ墓村」みたいに落ち武者狩の結果かも知れませんし。 訂正僕は、英賀城が落ちたのを高松城が落ちた直後だと勘違いしていました。明智光秀が討たれた山崎の合戦と、英賀城の後に山崎の??城が落ちたというのとを混同していたのだと思います。 他にも、後の時代になって、英賀城の話を、三木城や、高松城の話をヒントに大袈裟に脚色した文書が各地の三木家に配られて残っているという話をどこかで読んだ記憶があるのですが、思い出せません。僕の記憶が変質している可能性があります。
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2006/06/09更新 |
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