三坂の三木家について

母親の実家

母親の実家は旧家で、宍粟郡安富町三坂にあります。播州には5つの川が流れていますが、僕の実家は市川の下流にあり、母親の実家は、夢前川の上流にあります。

家紋(伝聞):隅切りに揺り三(隅切り角に波三)

yurisan.gif (1042 バイト) 家紋 は、隅切り角に揺り三(波三)という、瀬戸内海の四国側の大三島の大山祇神社の家紋と同じです。(ただし、実際に家の屋根についていたのも、お墓に彫ってあるのも、波打っていない棒です。おじいちゃんから聞いた言い伝えとして、本当は三本の線は波打っているのだというのを組み合わせるとそうなるということです。)他にも、まだ日本にプロ野球が無い時代のアメリカでプロ野球選手になった最初の日本人という三神吾郎という人の青山墓地にある墓にも同じ家紋があるようです。
さっき、スマステーションを見ていたら、NBAの最初の有色人種のプレーヤーは、wat misakaこと三阪亙(みさかわたる)だと言っていました。三神というのと三が共通しているなと思いました。両親は広島県の人のようですが、家紋まではわかりませんでした。(赤穂に大避神社があり、三木市に漢字も祭神も違うみさか神社がいっぱいあるので、酒は「さけ」とも「さか」とも読めるので、秦氏関連で何かつながりがありえないか? とかおもったりしますが、アメリカのプロスポーツへの日本人の進出のパイオニアである二人の苗字に「三」がついていたのは、まあ偶然の一致でしょうね。)

ちなみに、三神吾郎は山梨県の人の様ですね。

2005/2/27追記

家紋(お墓):隅切り角(隅切り折敷)に三本

クリックすると拡大表示(写真をクリックすると640*480サイズで見ることができます。)

三坂の三木家

三坂の三木家は江戸時代は大庄屋ではなく庄屋だったそうです。4つの家の家紋は揺れていない3本の線が隅切り角(折敷?)に載っているパタンで同じだそうです。三坂の墓地では近所の三木家の家紋も見ることができたのですが、三本の線が漢数字の三の様に真中が短いのがあったり、三本の線が下になるほど太くなっているのがあったりしました。

三坂では10年ほど前に家を建て替えたのですが、その時に、屋根についていた家紋の1つは近所の家にあげて、残りの1つは、納屋兼車庫にしまってあったそうなのですが、先日(2000/8)に行った時には見つかりませんでした。なので写真もありません。

あと、三坂の地名と、三木市の神社の名前が何か関係がありそうな気がしています。

外部リンク
三坂神社 詳細 御坂社、美坂社、三坂社、三坂神社、御酒神社 と似た名前の神社が三木市に集まっているそうです。

姫路市では三木姓は5位だし、西播磨ではもっと高密度のところもあるので、難しいですね。

関連ページ

合併パターンを考える 姫路に特徴的な三木姓の分布で、関連地域を区切ってみています。

2003/6/6追記

隅切り折敷と隅切り角

隅切り折敷と隅切り角は、斜めの線の比率が違うと思っていたのですが、どうもよく分からなくなりました。三木家は四国の河野家から派生しているのですが、「赤松氏・三木氏の文献と研究」では、河野家の家紋は、隅切りでない折敷(傍折敷 45度回転した正方形)に三本の横線が入っています。また、河野水軍は傍折敷に縮三文字(揺り三より波が多い)。どこかの時点で、三木家も隅切り折敷(隅切り角も両方ともほぼ8角形で区別がつかないみたい)に変化したのでしょう。大三島の家紋も現在は隅切りだし。

母親の説では、墓の家紋は8角形の縦横の長さと、斜めの長さが間違っていて、縦横の長さの方が長い紋付の家紋の方が正しいのだそうです。しかし、紋付の家紋の写真はありません。

 

桑名家も同じ?

2000/8/26のブロードキャスターの中だったと思うのですが、ロック歌手桑名正博が、二代目社長になったというニュースをやっていて、桑名家は帆船の時代から海運業で栄えみたいな歴史を語りつつ、出てきた帆船の絵の帆に、隅切り角に三本の家紋が入っていました。広く河野氏の末裔がこの家紋を使っているのでしょう。(というか、ちゃんと見ていなかったので絵と桑名家が関係あるのかどうかも良く分かりません。)

漢字の三が入っている家紋の例が2つ出てきたので並べ替えます。

神戸新聞へのリンク 辻川の三木家

ーーー

御幸通りのヤマトヤシキより北のあたりに新しい店ができていました。この家紋が、複数出てきたので、これが多いのかもと思いました。

右側の三木家の家紋がすべて同じというわけではありません。わかっていないものの、なんとなく関連がありそうだからまとめただけです。

 

林田の三木家

メールで教えてもらったのですが、江戸時代は大庄屋をしていたという姫路市林田の三木家には、城主からつながる家系図があるそうです。姫路市林田は、やはり夢前川の上流にありますが、三坂よりは南です。

外部リンク
近畿の城 播磨林田藩陣屋のところに、「天正6年(1578)に羽柴秀吉に攻められて落城した英賀城主の末弟・三木定道がこの地に移り城跡の窪山に屋敷を建てて住んだという。」という記述があって、落城の年代が2年ずれていますが、何でしょうか? 三坂に伝わるのと似たような歴史です。別の兄弟が三坂の三木家の起源なのかも知れません。あるいは、林田の三木家の歴史を自分の歴史だと勘違いしているのでしょうか?

2003/8/2追記 

広畑天満宮

『赤松氏・三木市の文献と研究』では、広畑天満宮が本家筋かな? ということになっているのですが、戦争の最中に系図は失われたということの様です。『播磨国英賀城報恩記資料集成』河野峯吉著1977の109ページでは、『赤松氏・三木市の文献と研究』では、『播州英城報恩記』を ベースにしていて新しい資料はないと批判し、名前に『通』が入っているから、 広畑天満宮を本家筋とするなんて笑止だ。それに、木村と称したり三木と称したり怪しいという風に否定してありました。

2004/5/24追記

姫路の図書館で読んだ、英賀保の郷土史の本では、英賀城城主の家系は、英賀に戻ってきたのだけれど、その三木家は途絶え、家系図が娘の嫁ぎ先の家で保存されているということでした。そうだとすると、少なくとも、三坂の三木家は本家筋ではないことになりそうです。

2005/2/27追記

山城淀城の稲葉という城主や、臼杵城の城主の家紋もこれですね。三坂のとは似ていますがちょっとちがいます。
稲葉良通(一鉄) このページに画像があります。

2005/3/13追記

辻川の三木家(大黒壱丁町の妻鹿屋)

福崎町の辻川の三木家もやはり江戸時代は大庄屋だったそうです。また、「播磨気質」では、最後の英賀城主・三木通秋の子孫とされる県文化財三木家住宅。とキャプション入りで三木家の写真が載っていました。柳田國男が12〜13歳の時1年間住んでいた辻川の三木家です。福崎町は市川の上流にあります。 『赤松氏・三木氏の文献と研究』の中では、貸した金の代わりに手に入れて持っていたという残党狩りを指示した秀吉の文書の写真が載っていました。

『播磨国英賀城報恩記資料集成』河野峯吉著1977の153ページによれば辻川の三木家に、『三木家記』という本が残っているそうです。

2004/5/24追記

 

『歴史街道』のルポ・家系図を作る人々の連載6回

今回は、辻川の三木家の親戚の三木哲郎教授の回だったのですが、雑煮を食べない家訓というのが出てきました。三坂の三木家では多分伝わっていないと思います。聞いたことがありません。

あと、辻川の三木家が辻川に移り住んだ年代が、1655年に榊原忠次の呼びかけに応じて、辻川の開墾に従事して、2代目が大庄屋をつとめることになったという風に 詳しく書いてありました。「赤松氏三木氏の文献と研究」では、英賀→飾磨津→大黒町→福崎町の辻川に移ったということなので、インタビューでは多少省略があるみたいです。辻川の三木家に対して大黒町の本家というのがあるはずなのですが、これは今はどうなっているのでしょうか? この大黒町というのはちょっと古い地名の様でどこのことかわかりません。

外部リンク
ガイドコース地図 このなかに二階町の三木脇本陣跡というのがでてきます。これとの関係も知りたいところです。

2003/6/6追記

大黒町というのはないのですが、姫路市大黒壱丁町というのがありました。賢明の東南のあたりでした。ということで、脇本陣の三木家と、辻川の三木家の本家にあたる大黒町の三木家は別のものであることがわかりました。

2003/6/7追記

椀箱屋三木家

『譜代藩城下町姫路の研究』は関係ないと思い込んで読んでいなかったのですが、疑問に対する答えがいろいろ含まれていました。

19ページに、国分寺家、三木家、那波家が姫路総町の町年寄りで、国分寺家が本陣で、三木家と那波家が脇本陣という様なことが載っていました。国分寺家だけは地子銀免除だったそうです。

29ページには、椀箱屋三木家には幕府の巡見使が{1710年,1716,1746,1760,1788,1838}の6回宿泊したとか書いてありました。

30ページには、大黒壱丁町の妻鹿屋三木家に那波屋から養子に入っているみたいです。

42ページには、英賀城が滅びた後の町人は龍野町に集められたと書いてありました。べつにみんながみんなということではなくて、例えば、そのうちの龍野に避難していた人がということかなとか思うのですが。

2004/4/24追記

『播州英城報恩記』70ページには、摂津から帰って播州で農家になり、姫山の麓の大黒町に移った三木庄兵衛という人もいるそうです。摂津と飾磨津という違いがあるし、飾磨屋、妻鹿屋と相違点が多いので、似た経路を通った三木家が複数あるのかも知れません。

2004/5/24追記

城主の呼びかけに応じて新田開発というのは良くある話みたいで、英賀城城主の三木家の最初の頃に枝分かれした浜田という人と大森源三という人が、僕の実家のある高浜校区の海岸部分の新田開発をしているみたいです。高浜校区だけではないのですが。

2005/2/27追記

福崎町の三木家と、姫路市林田の三木家は両方とも県重要文化財なのですが、三木教授は福崎町の三木家を国指定文化財にしようと企んでいるのだそうです。

辻川の三木家の本家も東京だそうです。

2003/6/6追記

神戸新聞に辻川の三木家の家紋が載っていたのですが、ちょっとデザインに差がありました。
神戸新聞ニュース姫路-2004.11.17-来年度にも資料館開設 旧姫路藩大庄屋・三木家住宅

中の三本の線が毛筆体の漢数字のになっていて、三坂の長四角が3つ等間隔に並んでいるのとちょっと違いました。

2005/2/27追記

 

関連はありそうだけれど家紋のデザインがちょっと違っていたので、表を分けました。2005/3/13追記

中央の三が真ん中が短い。

下の画像は近所(川越市)の時宗の寺、東明寺の参道脇の石柱の写真です。

 

中央の三の真ん中の線が長くなっています。画像は、メールでもらったのですが、転載許可依頼のメールをまだ出していません。

坂越の三木家

さらに最近になって、赤穂市坂越にも、同じ家紋の三木家があることをメールで教えてもらいました。赤穂市の三木家の場合には、英賀城の落ち武者ではなく、1441年の赤松満祐が将軍を暗殺した事件、嘉吉の乱の落ち武者という伝承が伝わっているそうです。赤穂市は千種川の下流です。(2000/8/14)赤松なのになぜ三木姓なのか迷いましたが、1441年の討伐に対して赤松満祐に味方した三木家の誰かの子孫なのでしょう。

最近になって、那波家から赤穂の三木家に養子に行った祖先を持つ人からメールをもらったので坂越の三木家の人に連絡 しようと思ったのですが、2000/10ごろにハードディスクがクラッシュしてその少し前にもらったメールの一部が消えている様で坂越の三木家の人のメールアドレスがもうわからなくなりました。連絡することができません。このページを再び訪れた際は連絡お願いします

          

その後2004/11にメールをもらって、お墓の家紋の写真もメールでもらったのですが、これも、 三坂のとは違っていました。斜線の長さの比率が長く、その菱形に近い8角形の中に縁まで届くように真ん中の線が長くなった三でした。

2005/2/27追記

 

これ訂正するのを忘れていたのですが、赤松満祐のせいで、赤松が没落したすきに、四国からやってきて英賀城の城主になった三木家とは別の、それ以前から姫路にいた三木家ということになります。英賀城の城主にも赤松系の三木家から養子をもらったりの歴史がありますから。

2003/6/6追記

那波家

関連ページ

那波、宇野氏、那波家、那波屋 2004/5/24 ページを分離しました。逃げたのが那波だし、二階町の旧三木家の場所に那波屋があったり、那波家から、別の三木家に養子に行っていたりかなり関係が深いようです。
播磨の郷土史の本
 

 

関連ページ

英賀城 英賀城歴代城主の墓は、本徳寺関連の寂円という人によって壊されて残っていません。

 

三つ割り桔梗  母親の女紋です。

(父の母と、父の父の母の女紋は偶然同じだったそうです。)

痕跡

クリックすると拡大表示 庭の西に草に埋もれた古い墓がありこれが、最初に三坂にやってきた人の墓だとされています。左の写真です。草に埋もれてよく分かりませんが、2つの石の間に、丸い石が2個落ちています。もともとはどうなっていたのか知りません。

(写真をクリックすると640*480サイズで見ることができます。)

痕跡の伝承

旧家であるものの、途中、親が早死にして、家財を売って暮らしていた時代があったし、第二次大戦中には、母親自身も、屋根裏に縛ってあった鎧を分解して作った赤いセーターを着ていたことがあったりしたそうで、昔のものはあまり残っていません。

叔父の話では、庄屋をしていた時に葬式の時だけ差せる刀とか、火縄銃まであったそうです。火縄銃の件は、叔父に初めて聞いたのですが、母親の話では、埋めてあった古いものは、残っていないということだったので、これらは落ち武者時代のものではなく庄屋時代のものかも知れません。家系図MLで江戸時代の末期に火縄銃を使って狩猟をしていた話しが出てきていました。(江戸時代は、人口も増えないし、技術も進歩しない時代だった?)

過去帳

16世紀にその土地にやってきた人か、あるいはその祖先の2、3人の法名が書かれた煤けた掛け軸が両方にかかっていたそうです。母親の記憶では年代は1550年頃だったとか言っているので、やってきた人の祖先の法名だろうということです。しかし、おばあさんの葬式後に仏壇を変えてそれから見当たらなくなっているそうです。先日2000/8 叔父の家を訪ねたのですが、その掛け軸は出てきませんでした。大切にしまいすぎて出てこないのか、古びて汚れているから捨ててしまったのか。

しかしそれは、法名だけです。年代が書いてあったのだとすると、河野峯吉さんが調べに来たときに見せていれば、誰だか判断がついていたかも知れないのですが、河野峯吉さんには見せていないそうです。英賀城の歴史の中の人との関係はわからないそうです。

また、林田のお寺で、過去帳を調べてもらったそうなのですが、最も古いもので、元禄年間1692年に死んだ祖先までしかたどれなかったそうです。それより昔は、火災で紛失しているのだそうです。せっかく寺の過去帳を調べてもらったにもかかわらず、普通の大きさの墓石なので書き込むスペースが無くて、墓には僕から数えて6世代前の人の名前しか載っていませんでした。

三坂のおじいちゃんが死んだときに、おばあちゃんなどが京都の西本願時まで納骨に行っていました。なぜわざわざ京都までと疑問だったのですが、僕の実家でも、西本願寺ではないが、亀山本徳寺の納骨堂があってそこに納めるそうです。ということで、檀家になっている末寺だけでなく、本願寺やその直轄寺とも納骨の時にはかかわりがあるみたいです。ということで、将来、古文書OCRができて、お寺の文書が電子化された頃には、末寺ではデータが存在しなくなっていても西本願寺やその直轄寺からデータが取り出せる可能性があるかも知れないと思ったのでした。まあ、その前にすべきことはいろいろあるでしょうが。

文献

「安富町史」には、100年ほど前の分家である裏の家に伝わっている庄屋をしていた頃の江戸時代の書類の写真が載っていました。もしかしたら裏の家には、英賀城との関係を明らかにする古文書も残っているのかも知れません。

『播州英城報恩記』河野峯吉著の 99ページに三坂の三木盛一氏所蔵の本によって、直村庄屋三木勘七の子孫で大津区勘兵衛新田を開発した勘兵衛のことがわかったという様なことが出てくるのですが、三木盛一氏というのは母親の実家の南側の家です。裏の家も南側の家も両方とも100年ほど前の分家のようです。幅広く散逸しているようです。

僕の実家の近所の阿成(あなせ)村の庄屋をしていた大森源三という人は、三木勘兵衛という人の子孫だそうです。

2004/5/24追記

触元大庄屋をしていた三木家は、英賀城城主の三木家の2代目あたりの分岐なので、母親が言っていたような秀吉に滅ぼされた頃の三木家ではなく、三木家の2代目あたりの分岐である可能性もあるのかなと思いました。

2005/2/27追記

「安富町史」によれば、三坂を含む5つの村の大庄屋の土居家の文書には、江戸時代の入会地訴訟のこととか出てくるそうです。本の中では別の村の例が書いてあるのですが、三木家の祖先も村の入会地訴訟で、裁判では勝ったものの、訴訟費用がいっぱいかかって庄屋が山を売って払うことになってしまったそうです。

「安富町史」の最後の方のそうれん(葬式の意味)の様子の写真が載っているページがあるのですが、それは、三坂の墓から、母親の実家の方を見た1968年の写真で、わら屋根の一部が写っています。ひいおばあちゃんの葬式が1966年にあったのですが、そんな感じだったのでしょう。ひいおばあちゃんは長生きしたので親戚が大勢やってきて喪服の人の比率が高い葬式だったそうです。

伝承

母親の話では、二人の家来をつれて三坂に逃げてきたことになっていて、叔父の話では、兄弟と家来の3人で逃げてきたことになっています。三坂の中を流れる川の西側に弟の子孫の三木家が分布しているのだそうです。(家紋はまったく異なるデザインだそうです。)あと、叔父の話だと、三本の線は鰹節を意味することになっています。

いろいろおもしろい伝承を母親から聞いているのですが、どこまで本当なのかよくわかりません。昔は夢前川から東の山に囲まれた範囲すべての土地や山を持っていたとか、売ってはいけないと言われていた畑を、分家が相続して、分家は穴を掘りつづけて次の世代でついに、隠されていた宝を掘り当てたといった話です。古文書などが裏の家に伝わっている理由として母親はこういう説明をしていました。多分、親が早死にして物を売って生活していたという時代に古文書も売ってしまったのでしょう。

あと、今の家は10年ほど前に立て替えたものでその前の家は100年程昔のわら屋根の家でした。そのさらに前の家は、周りに廊下がある平安風の建物だったそうです。親が死んで財産を売って暮らしていた頃、山崎に住む親戚ではない三木家に売って、買いとった人は、山崎に移築したのだそうです。

母親が言うには、宍粟郡安富町三坂では、三木姓が半分くらいで、その本家が母親の実家であるということでした。しかし、全体で50世帯に対して10世帯ほどしかありませんでした。母親は、それは、奥三坂を入れているからで、今は三坂と呼ばれているが、昔は単に奥と言われていて別の村として言っていたそうです。

三木氏に関する研究者

母親が多少余分に家系図とかに興味を持っているのには理由があります。僕の両親はお見合い結婚なのですが、お見合いの話を持ってきたのが、河野(こうの)という人だったそうです。実際には、僕が小学校の1,2年の時に隣のクラスの担任だった三木先生の親の家を訪ねた時に、そういう話が出たということらしいです。播州各地の三木家を訪ね歩いて古文書とかをみせてもらいに回って、英賀城崩壊について本を出した人みたいです。昭和34年の『播州英城報恩記』河野峯吉著という本だと思います。(「赤松・三木氏の文献と研究」の13ページに出てきました。)母親の実家の西側の庭には、最初に三坂にやってきた先祖の小さな墓があるのですが、河野さんは、その墓の形を見て、城主の家系ではないと判断したそうです。

播州の三木家について

「播州気質」では、播州の三木家について32章のうちの2章を費やしてあります。播州には三木家が多いみたいです。英賀城の城主起源の三木があって、それもいろいろ複雑みたいなのですが、その他に、三木城の城主別所氏が切腹してその代わりに家来の命が助かり、その家来たちが各地に散って三木家を名乗ったというのもあるみたいです。竜野の三木露風、三木清はその口だろうと書いてありました。

落ち武者がなぜ、江戸時代に庄屋になったりすることができたのか疑問だったのですが、「播州気質」では、夢前川上流には、昔から京都の朝廷に反抗した人が流されて住みついて来たそうです。もともと純朴な人たちが住んでいたので、逃げてきた人を受け入れたということみたいです。あるいは、もっと普通に、領地のひとつに引っ込んで農民になったというだけかも知れません。

別の可能性

他の本には、三木家に限らない一般的に、戦乱を逃れた豪商や豪農が、戦乱の当事者だったかのような伝承を伝えていることがあると書いてあったのでした。なので、そういう可能性が常に残ります。武具の類が残っていても、それも、「八つ墓村」みたいに落ち武者狩の結果かも知れませんし。

訂正

僕は、英賀城が落ちたのを高松城が落ちた直後だと勘違いしていました。明智光秀が討たれた山崎の合戦と、英賀城の後に山崎の??城が落ちたというのとを混同していたのだと思います。

他にも、後の時代になって、英賀城の話を、三木城や、高松城の話をヒントに大袈裟に脚色した文書が各地の三木家に配られて残っているという話をどこかで読んだ記憶があるのですが、思い出せません。僕の記憶が変質している可能性があります。

外部リンク

Internet Archive Wayback Machine このページの2000/7/11バージョン
BIGLOBEサーチ:“三坂 三木”での検索結果 2003/6/7現在 273件中1位 2位の重要度は7

関連ページ

古文書OCR関連のリンク集 作りかけです。
柳田国男
日本での三木姓の分布
徳島県での三木姓分布
三木姓の兵庫県での分布
三木姓関連
松岡 という名字について 辻川の松岡姓もいったん、飾磨津にいたことがあるのではないか? という可能性
英賀城 

2006/06/09更新 

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