
ガタリ、ドゥルーズあたりのフランスの哲学者の書いている論文のいい加減さを攻撃するために、同工異曲の論文を発表し、その後、でたらめさを暴いたという事件です。
「科学朝日」2000/5の岩波書店の広告に日本語版の広告が載っていました。妻に買ってきてと頼んでいたのですが、忘れられていました。(2000/4/21)
10%offで買ってきてくれました。発行が少し遅れたみたいです。これから読みます。昔、アスキーネットPCSでwadさんとかと認識論的相対主義について話していたら、倫理における相対主義だと解釈してしまう人がでてきて混乱したこととかあったと思います。それとか、相手の主張していないことについて論難してみせるというのもパソコン通信時代によくあったことです。虚空に吠える犬につられる犬がいる心配はしなければなりません。そのころの記憶がいろいろよみがえります。
19ページに、ポストモダンの哲学者だけではなく、通俗書でのホーキングやペンローズの憶測も攻撃すべきだという読者からの意見というのが出てきたのですが、それはそうだと思います。人間原理についてパソコン通信時代に何度も攻撃した記憶があります。(2000/5/30)
まだ途中ですが、「事実と事実についての主張の混同」というあたりで、主語の同一性が保たれていない良くある症状だなあ、と思いつつ。そういえば、昔、アスキーネットACSで、解釈は1つでも事実は無数という風に言っていた教授がいたという風に聞いて普通、解釈は無数にあっても事実は1つという風に言うところだからその人が聞き間違えたのだろうと思っていたのですが、実はソーカルたちが攻撃している種類の相対主義−−−そういえば、アスキーネットには、何でも「フツーどうこうだ」とフツーをつける人がいました。平均以下の判断力しか持たない人にとって自分の判断を平均的な判断で置き換える方が有利なので普通どうであるかが重要なのは、平均以下である証拠だと、ワインバーグの意見を引用して攻撃したことがあるのですが、その類の−−−事実はどうでも良くて、みんなが事実だと思っているかどうかが重要だという風な、相対主義が、思いの外はびこっているのかも知れません。思い返せば、「本当の私」などいうものは幻想に過ぎないと言っている教授もいました。成り立たない前提を述べた後に、ひどい主張をする(昔は左翼の)西部邁とかも、「自己実現」という言葉に拒絶反応を示していて、原因を辿ると、同様の思考パタンがあったのかも。(2000/6/1)
| 宮崎哲弥氏による西部邁が共著者になっている「愛国心」という本の書評で、西部氏の言動を「あえていう極論僻説」と済ませている表現がありました。あまりにもぴったりな表現なので気に入りました。西部極論僻説邁と改名するのも良いかも
2003/8/28追記 |
注など読み飛ばしたと思うのですが、大体、終わりまで目を通しました。形態形成場理論を、特に説明すること無く、エーテルの時代に戻りたくないから駄目という感じで済ませています。別に1つの解釈だから許されると思うのですが、このあたりは、ベイズ統計の考え方に著者たち余り馴染んでいないのかもという気がしました。ラプラスの前提部分を抜いて引用すると数盲発言になってしまうあたりで、何か罠に陥っている様にも見えました。
検証を経ていない段階では、どの仮説も等価であるというのは納得できるとおもうのですが、その点では、著者たちが嫌っている相対主義も受け入れ可能なはずです。単なる偶然という説明しか思い付かないなら、どんなに偶然では説明しにくい事柄でも、偶然と結論づけるしかないわけで、そこに科学者の教条主義的な態度が現れてきます。相対主義が本来攻撃していたのは、幼稚な仮説扱いして無視することで、既存の科学で説明できなければ、万能仮説「偶然」に任せるという部分のはずです。攻撃されている理由が分からずに反撃したところで、力が弱いと思います。それに、自分では憶測を述べることもしているわけで、この点でも、割り引かれると思います。
たとえば、抽象絵画を見て、それが題名と著しく食い違っていても、それに文句を言う人は滅多にいないわけで、社会科学の内部から批判されているのでない限り、今回批判された人は懲りないと思います。でもまあ、引用されて攻撃された人たちは、どう見ても「へたうま」ではなく、「へたへた」ですね。(2000/8/13)